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墓碑銘:岡崎(宮前)一明に捧ぐ

*著者が記した「墓碑銘」の一部を本書の中から紹介します。©Seguchi Haruyoshi

1986年生まれ。執行時57歳。2018年7月26日執行。

●温かい家族へのあこがれ●


 「水墨画の教本を差し入れてほしい」という手紙が東京拘置所の岡崎一明から私に届いたのは、控訴審が終わってから1年半ほど経った2003年5月だった。その後、岡崎は独学で水墨画を学び、国内最大級の水墨画展で審査員奨励賞など多くの賞を受賞した。素人目にも筆遣いは緻密で、几帳面な性格がにじみ出ていると思った。

 

 岡崎から最初の手紙が私に届いたのは、1998年12 月。一審の死刑判決から2カ月後だった。取材で知り合った元出家信者を通じ、手紙のやり取りをしたいと申し入れると、裁判所の許可が下りた。2通目からはB4判の紙に小さな字でびっしりと書き込まれ、犠牲者、遺族への謝罪の言葉がつづられていた。私が教団の教義などを質問し、岡崎が回答する往復書簡の形で続き、死刑が確定するまでに70 通の手紙が届いた。

「オウムから命を狙われる恐怖と、逮捕されて重刑に処せられる恐怖のはざまで、悩み続けながら生きてきました」。

96 年4月17 日の初公判で岡崎は、小さな身体をこわばらせて被害者、遺族への謝罪を繰り返した。深い悔悟の気持ちが伝わった。しかし、彼が麻原公判などで厳しい証人尋問にさらされると、別の一面も見え始める。

 

 坂本弁護士一家殺害の実行にかかわった後の90 年2 月、岡崎は教団が衆院選に資金をつぎ込む姿勢に疑念を抱いたという理由で、現金2億3000万円などを奪って、女性信者とともに教団から逃げた。先回りした早川紀代秀に宅配便を押さえられ金を奪い返されると、岡崎は坂本の長男の遺体を遺棄した現場の地図や写真を神奈川県警に匿名で送り付けた。

 

 麻原は、岡崎の所持金170万円を1000万円から差し引き、830万円を「退職金」名目で岡崎に渡すよう指示した。事実上の「口止め料」である。その後は郷里の山口・宇部市に身を隠し、学習塾を営んだ。丁寧な指導で人気があったという。

95 年3月に教団に強制捜査が入ると、神奈川県警に自ら連絡。それでも、坂本弁護士一家殺害事件への関与は、見張り役程度しか認めなかった。逮捕前にインタビューに応じた週刊

誌からも、高額の謝礼を受け取っていた。

 

 温かい家族へのあこがれを私への手紙につづっていたことが印象に残っている。教団在籍中に名乗っていたのは養父母の佐伯姓だったが、逮捕後は実の父母の姓である岡崎姓を乗った。世話になった養父母に迷惑を掛けたくないという思いがあったようだ。岐阜・関市にあった玉龍寺の宮前心山住職と獄中で養子縁組してからは、宮前姓となった。

 

 実母は生後10 カ月の岡崎を残し家を出て、2歳3カ月で養子に出された。中、高校生の時には新聞配達や土木作業の仕事をして学資を稼いでいた。中3の受験期、親子げんかの際に養父に実子ではないことを知らされる。〈こんなところに預けるなら孤児院(原文ママ)の方がましだ〉と自分を捨てた実父母への怒りがわき上がり、その日は朝まで一睡もできなかった、と赤裸々につづっていた。

 

 県立工業高校を卒業後、建設会社に就職。大学の夜間部に通わせてもらえるという約束をほごにされ、数カ月で辞めている。製薬会社や学習教材のセールスなどへの転職を繰り返す中、精神世界や仏教、新宗教への関心を深めた。阿含宗に入信するなど宗教や修行の遍歴を重ねた後の85 年に、雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』で麻原の記事に感動し、直接「オウム神仙の会」に電話を掛けると麻原本人が出た。こんなやり取りがあったという。

「私はセールスなどで相当の悪業を積んでいますが、それでも解脱はできるのでしょうか?」

「はい、できます。あなたがそう思っている時点から、あなたの罪は消えています」

 

 この会話で岡崎は心をわしづかみにされてしまった。出家したのは25 歳の時。「自分のすべてを見てくれる。おやじというか、家庭的な雰囲気に引かれた」。

岡崎は、心の底で求め続けた「父性」を麻原に重ねた。


●まるで凱旋将軍●


「最終解脱者」である麻原を除けば、後の「大蔵省大臣」(女性幹部)に次ぐ教団二人目の成就者になった。

「マハー・アングリマーラ」のホーリーネームを与えられ、草創期の最高幹部の一人として活動し、教団の発展に尽力した。

「アングリマーラ」は999人を殺害した後に改心した釈迦の弟子の名前にちなむ。教団では、書籍販売部門の営業責任者として辣腕を振るった。

 

 修行中に死亡した真島照之の遺体を警察に届けずに処理した件にかかわり、その後は教団からの脱会を求めた出家信者の田口修二の殺害にも幹部の一人として関与した。9カ月後には坂本弁護士一家殺害事件の実行犯になった。深夜、坂本のアパートまで行き、無施錠だったことを確認したのは岡崎だった。端本悟は「かぎが掛かっていないことを岡崎さんが確認しなければ、冗談で終わった」などと証言した。


「オウムをつぶせるのは自分しかいない」「麻原のような怪物が二度とこの世に生まれてこないためにも積極的に話す」│岡崎は自分の公判でそう訴えてきた。しかし、教団の崩壊に果たした貢献ぶりを強調すればするほど、遺族から「まるで凱旋将軍が手柄話をしているようだ」(坂本都子の父・大山友之)と強い反発を招いた。

 

 一審では、国際医療福祉大学教授の小田晋らが心理鑑定を実施した。その結果は「責任能力はあるが、犯行時においてそれ以外の行為を選択できない状態にあった」という内容だった。裁判所は責任能力があったという点のみ採用して、98 年10 月の一審求刑通り死刑

判決を下した。

「自首の動機は、真摯な反省ではなく、教団によって殺されることから身を守るという自己保身だった」

「捜査機関の事情聴取に平然とうそをつき、遺族の救出活動を目にしながらも関与を隠し続けた態度は、したたかで狡猾」

 

 林郁夫の真摯な反省を認め無期懲役の判決を言い渡したのと同じ東京地裁の山室恵裁判長は、判決の中でこう指摘し、「人間性の欠如」とまで断じた。恵まれない環境の中で生きてゆくために身に付けた処世術が断罪されたように私には思えた。

 二審も死刑判決が維持されたが、判決文には一審のような厳しい「人格否定」の表現はなく、「真摯な反省の態度を示している」としていた。岡崎の手紙には〈少し安堵しました〉と書いてあった。

 

 初めて岡崎と面会できたのは控訴棄却の直後の01 年12 月19 日だった。寡黙な死刑囚という、頭の中で描いていた人物像は見事に覆された。実に饒舌な人物だった。01 年1月、私が大腸ガンで手術した時には、獄中からお見舞の電報を送ってくれるような気配りの人で

もあった。

 

 その後、前述のように独自の「在家出家」制度をつくった玉龍寺の宮前心山住職と知り合い、養子縁組し、獄中で得度した。05 年4月の最高裁判決に際して、岡崎は、「黄山雲海」と名付けた水墨画と、現在の心境をつづった手記を寄せた。

〈救済を誓ったあの志が、別の方向に暴走したことに気づいてほしいのです。偏った教えにとらわれる恐ろしさを気づけば救われます。(略)ブッダは輪廻転生など説いていません。この世にカルマなんてありません。気づいたとき、私たちは宗教や信仰の呪縛から離れます。他人に教義や教えを刷り込むのは間違いであり、真の仏教とは宗教でも信仰でもありません。万物事象の中で生かされている自分に気づいたとき、心は氷解します。ありのままの自分が在るがままの自然の中で息づいていることに。一人ひとりがそれに気づくことでこの世は一変します。

 今生で出会った多くの人に心から感謝致します。最期の日までこの気持ちを忘れません。ありがとうございました。合掌

 平成十七年四月五日 宮前一明〉

(東京新聞、05 年4月7日夕刊)


●13 冊の獄中日記●

 

 岡崎は18 年3月、名古屋拘置所に移監され、7月26 日に死刑が執行された。57 歳だった。遺品は支援者の女性が引き取った。衣類、描きかけの絵など段ボール9箱分だった。拘置所の独房で描いた数多くの水墨画も、この女性が保管している。

 

 執行後、私はその女性と会って話を聞いた。NHK の特集番組『未解決事件File 02

オウム真理教17 年目の真実』( 12 年5月26 日放映)でオウム事件が取り上げられているのを見て、「オウム事件って未解決なの?」と関心を持ったという。

 

 死刑囚との文通や接見は厳しく制限されており、女性が岡崎と直接会ったことはない。名古屋市に住んでいた5年ほど前から、岡崎との交流を特別に認められた支援者を通じて手紙を出したり、差し入れをしたりしてきた。死刑を執行したとの連絡を受け、岡崎から生前に指名されていた彼女が遺品を引き取りに行った。

 

 思いがけなく名古屋拘置所の職員から「会っていきますか」と聞かれ、棺の中の岡崎と対面した。初めて直接顔を見た岡崎は、穏やかな表情だったという。麻原らの執行から3日後の7月9日付で書かれた女性宛ての手紙には、〈死を超えてまで妄信する宗教と人の心との関係を、もっと深く追求しなければ再びオウムのような空間を現代人は造り出してしまう〉と書かれていた。

 

 遺品の中には13 冊の獄中日記があった。1冊を見せてもらうと、びっしりと小さな字で書かれている。誰と会ったとか、手紙を書いたとかが詳細に記されていた。そこには私の名前も頻繁に出てきていた。〈遺書を書いている〉と手紙にあったが、遺品の中からはま

だ見つかっていない。女性は事件のことをもっと考えてもらいたいと思い、ブログを開設した。岡崎が拘置所から発信した手記や水墨画なども公開している。



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