*著者が記した「墓碑銘」の一部を本書の中から紹介します。 ©Seguchi Harusyohi
1949年生まれ。執行時68歳。2018年7月6日執行。
●狂気の宗教家●
体制崩壊で揺れ動いていたロシアとの間を何度も行き来した早川紀代秀は、刺殺された村井秀夫と両輪となり、オウム真理教の非合法活動を指揮する「武闘派」のイメージが強かった。しかし早川と面会して手紙をやり取りする中で、強面の印象は変わっていった。
早川の著書『私にとってオウムとは何だったのか』(ポプラ社、2005年)によると、早川は大阪府内でも屈指の進学校を経て、神戸大学農学部に進学。具体的な手段や方法論に違和
感があり、学生運動は冷めた目で見ていたという。社会を変えるためには、まず人間の心を変える必要があるとして、意識と環境の研究を目指した。造園を専攻に選び、大阪府立大学大学院では緑地計画工学を専攻した。
「ノストラダムスの予言」に影響を受けた。1999 年にハルマゲドンが起きるという時に、仕事だけやっていていいのか、という気持ちがくすぶった。瞑想やヨーガの本を買い漁っていた中、86 年、麻原の「空中浮揚」が表紙になった著書『超能力「秘密の開発法」』に出会った。宗教には興味も関心もなかったが、麻原のもとで修行を重ねているうちに確信を深め、両親と住んでいた家を売り、妻と一緒に出家した。
95 年12 月の初公判での、入廷時の仕草が私には印象深い。裁判官に一礼した早川は、くるりと後ろを向き、傍聴席にも頭を下げた。証言台に向かう時も同じ動作を繰り返した。傍聴人にまで気配りをする被告を見たのは初めてだった。
武闘派の印象が崩れたのは、早川が証人出廷した97 年2月の麻原公判だった。例によって麻原は被告人席で不規則発言を繰り返し、退廷を命じられた。その直後、早川が証言台に突っ伏し号泣し始めた。当時47 歳。傍聴していた私はあっけにとられた。とっくに脱会を
宣言し、教祖と決別していたのではないのか? 麻原が退廷したあの場面で、なぜ声を上げて泣いたのか? その理由を聞きたかった。
2004年5月に控訴審が終わった後、手紙のやり取りができるようになり、早川に質問をぶつけると、丁寧な返事があった。
早川によると、グルの前で証言するという一大決心をして証言に臨んだが、いざ始まってみると、訳の分からないこと、しかし、胸にぐさっとくるようなこと(例えば「両親や妻のことを考えろ」とか)をブツブツつぶやくグルの態度に、気が動転し、極度に緊張をしたという。麻原が悠々と退廷していく後ろ姿を見た時、それまで張りつめていた気持ちが一気に崩れ、無性に情けなくなり、悲しみがこみあげてきてどうにもならなくなったそうだ。
信頼し合っていた師弟が法廷で対決するということ自体、非常に情けないことだったが、事件の宗教的正当性に疑念が生じた以上、それは避けて通れないことであると観念し、法廷での証言を始めた早川。しかし、弟子の証言をまともに聞こうともせず、結局退廷させられてしまったグルの態度に強いショックを受けたという。
〈今思えば、あの時感じた情けなさは、グルとあがめた人の態度があまりにも情けなかっただけでなく、自分の証言を聞いてすらもらえない自分への情けなさというものもあったように思います。そういう意味では、当時はまだまだグルへの依存心が抜け切っておらず、その依存心を涙で洗い流してしまいたかったのかもしれません〉
麻原への依存心がまだ残っていたという正直な回想は驚きだった。早川のような社会経験の豊富な男でも、宗教的な呪縛からは簡単に逃れられないことを知った。
麻原という人物をどう考えているのか、という質問には次のように答えた。
〈世間一般で思われているような俗物のいかさま師とは思っていませんが、宗教的使命感によって悲惨な事件を起こし、憎しみを機縁に救済を図ろうとしてしまった狂気(原文ママ)の宗教家であると思っています。最終解脱をされたのかわかりませんが、霊的にはかなりのレベルにあったと思います。しかし、信じられていたようなレベルにはなく、また、この人間の世界に神々の論理と称するものをそのまま持ち込んで多くの苦しみをもたらしてしまったのですから、裁かれてしかるべきだと思います。
宗教全般については〝危険ではあるが必要なもの.というふうに思っています。「危険である」というのは宗教は時として人々を破滅させてしまうからであり、「必要なもの」というのは宗教なしには人間は真に幸福にはなり得ないと思うからです〉
俗物のいかさま師ではなく「狂気の宗教家」――。これが控訴審終了時の結論だった。控訴審後、接見禁止が解けた早川と何度か東京拘置所で会った。髪が真っ白になっていて驚いた。
取りざたされていた警察庁長官狙撃事件への関与について話を向けると、早川は「死刑判決を受けている人間がなぜいまさら隠し立てをすることがありますか」とぷりぷりと怒っていた。人間味のあるおっさんというイメージの人だった。手紙には必ずカラフルな手描きのイラストが添えてあった。
●ロシア・ルート●
早川といえば、ロシア・ルートを問わないわけにはいかない。起訴された事件の大半がロシアとは無関係だったから、公判では話をする機会がなかった。
95 年5月、上九一色村で麻原が逮捕された時、私はモスクワでロシア支部の活動や武装化に関して取材をしていた。激しいインフレによってルーブル紙幣が紙くずのようになっていたころだ。KGB関係者への取材は相当のドル紙幣を積まないと難しいと言われていた。こちらの取材力不足もあり、教団とのつながりの核心を知るロシア人関係者に接触することができず、モスクワでの取材は大きな成果を残せなかった。それだけに早川にはロシアで何をしたのか、聞きたいことがたくさんあった。
05 年6月、教団のロシア進出と武装化への関与について質問する手紙を送ると、早川から丁寧な返信が届いた。まず、ロシア進出の経緯についてこう回答した。
〈麻原がロシア進出を図ろうとした理由はロシアでの布教に興味があったからではなく、ロシアでのオウムの活動が日本向けのPRになると考えたからでした。このことは当時、何度も聞いています。創価学会が池田大作名誉会長の海外での講演や海外の要人との会談の様子を大々的にPRしている手法が、当時のグル麻原の頭の中にはありました。
グル麻原の初めてのロシア訪問の主目的はエリツィン大統領との会談であったわけですが、これは実現しなかったものの、ロシア政界の要人との会談、大学での講演、ロシア正教会府主教との会談やクレムリン劇場でのオリジナル・ミュージカル『死と転生』の上演などは実現し、狙いだった日本向けのPRの材料はほぼ得るのに成功したと言えました。
また事前交渉の過程で私が日本向けの日本語ラジオ放送の放送枠を手に入れたことが、「ロシアでの出来事のなかでの一番の成果である」とグル麻原が喜んだのも、その目が常に日本に向いていたからでした。ロシアへの進出はあくまで日本向けのPRのためでしたが、ロシアではこれを機にオウムの布教を時の政権やロシア正教会が半ば公認した形になったため、その後のロシア国内のテレビ、ラジオ放送の開始と相まってロシアでのオウム真理教は急激に発展していったのです〉
91 年冬、ソ連の体制が崩壊した。共産主義イデオロギーを失ったロシア人の関心は、民族主義やロシア正教、新興宗教などに向かい、一部は終末論や救世思想を唱える宗教へと走った。その受け皿の一つになったのがオウム真理教だった。
早川によると、テレビやラジオで教団を知ったというロシア人が連日、支部を訪れ、信者数は93 年秋ごろには1500人ほどになっていたという。92 年冬から93 年春、早川は村井ほか科学班のメンバーをロシアの物理・化学研究所に案内し、ロケット工場、自動小銃をつくる軍事工場、軍事大学などを見学させた。さらに、ひそかに自動小銃AK 74 一丁を入手した。早川は、これがロシアでの「唯一の非合法活動」と手紙で強調した。
93 年7月ごろ、早川はエリツィン大統領側近のオレグ・ロボフ安全保障会議書記と麻原の会談をセットし、パリで会談が実現した。また、ロシア製の大型ヘリコプターを輸入した。量産プラントでサリンを製造できたら、このヘリコプターで上空からサリンをばらまく
計画だったが、試運転の際に破損し使いものにならなくなった。
94 年3月には、「酒石酸エルゴタミン」を旧知の科学者を通じて大量に入手した。酒石酸エルゴタミンは片頭痛の治療薬として用いられるが、教団は幻覚剤のLSD製造のために使用する予定だった。国内で大量に入手すると捜査当局に知られてしまう可能性があるため、ロシアから輸入することになったのだ。早川は5キロを25 万ドルで購入、日本に持ち帰った。
4月には、ロシアで第1回射撃ツアーを開催し、出家信者十数人が参加した。このメンバーが帰国する際、入手した自動毒ガス探知機、細菌検知器を分解して持ち帰った。6月の第2回射撃ツアーは一般公募に失敗し、信者の参加もなく、やむなく「法皇官房」の幹部
らが急遽参加した。これを最後に射撃ツアーは中止になったと振り返っている。
早川がロシア中枢部にコネクションを築き、武装化やイニシエーションに使う違法な薬物の製造に利用していたことは本人も認めている。ただし、北朝鮮や暴力団との関係については全面的に否定した。手紙には詳細を記しているが、紙幅の関係で紹介できないのが残念だ。失うものがない早川がうそをついているとは私は思っていない。
●グル幻想●
獄中で早川は、ヨーガやチベット仏教をはじめ精神世界に関するさまざまな本を貪るように読んだ。逮捕から2年で700冊から800冊に達したという。
オウムのどこがどう間違っていたか?という問いに、早川は一つの答えを出している。
〈グル麻原が自分は人類のカルマを清算する地球規模の救世主であるという救世主幻想とでもいうべきグル幻想(グルのグル幻想)をいだき、それを私達も共有してしまったこと(弟子のグル幻想)、これがオウムの間違いの根本ではなかったかと思います。/(略) こうしたグル幻想がなければ、オウムの凶悪犯罪は起こらなかったのではないかと思います。/ここで「人類のカルマを清算する」というのは、神の裁きとして悪業を積んだ人類のカルマを落とすために人類を裁くというもので、それは殺害も厭わないものです。そういう使命を帯びて、自分は人間界に下りてきたんだという幻想が、グル麻原にはあったわけです。こういう宗教的幻想に弟子達も巻き込まれて、それにとらわれてしまったために事件を起こしていったと思います〉(早川+川村、前掲書)
福岡拘置所に移監された後の18 年6月、死刑廃止を求める団体の要望に応じて文章をつづっている。これが早川の最後の言葉となった。
〈死刑の基準を明確にすべきと思います。特に共犯がいる場合の基準は、ないに等しいと思います。/オウム事件の場合、共同共謀正犯(原文ママ)だからという理由で、自分では一人も殺していない者が死刑で、自分で二人も殺している者が無期というのは、どうみて
も公正な裁判とは言えません。(略)/オウム事件のような、グルと弟子という関係性の中で行なわれた犯行は「共謀」という概念にはなじまないものです。私の判決に出ている事件の動機や目的にしても、グルの動機や目的を推察したものであり、それらは、私達、弟子の犯行の動機や目的とはまた違います。私達弟子は、なぜあのような犯行を命じたグルの指示に従ったのかということを語れても、なぜあのような犯行の指示を出したのかということは推測でしか語れません。これを本当に語れるのは、グルであった松本死刑囚だけです〉(『年報・死刑廃止2018オウム死刑囚からあなたへ』、インパクト出版会、2018
年)
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