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墓碑銘:広瀬健一に捧ぐ

*著者が記した「墓碑銘」の一部を本書の中から紹介します。 ©Seguchi Haruyoshi

1964年生まれ。執行時54歳。2018年7月26日執行。

●お父さんを返して●

 

 段ボール箱に入った取材資料を整理していたら、風呂敷に包まれた厚い紙の束が出てきた。広瀬健一から、2008年ごろに送られてきた数学の問題集の草稿だった。被害者に手紙を書くために獄中でペン字を習った彼らしい丁寧な文字で書かれていた。高校受験の問題集を出版して賠償に充てたいので、版元を探してもらえないか、という依頼だった。

 

 受験産業にかかわりの深い何人かの知人に打診したが、高校受験の問題集は時代のニーズと合わず実現できなかった。数年後、電子書籍として出版できたとの連絡が届いた。

「最も優秀な学生でした。国際会議に向け、論文を作成するに当たり、なくてはならない存在でした」

 早稲田大学大学院の指導教授が一審の法廷で証言するように、広瀬は研究者として将来を嘱望された存在だった。

 

 麻原の国選弁護団の一人は、接見の際に「広瀬さんはあなたと出会わなかったら世界的な学者になれる人物だった。罪を認めないのは構わないが、巻き込んでしまったことへの責任は感じるべきじゃないのか」と強く迫ったことがある。麻原は黙ったまま何も答えなかったという。

 

 広瀬がオウムに入信した動機は、本書第2章の手記に詳しい。誠実に公判に臨み、共犯者の公判でも抜群の記憶力で自らがかかわった事件の全貌を静かに語ってきた。

 1999年3月、広瀬のまいたサリンによって父親を奪われた女性が証言した公判を取材した。証言を終えて法廷を去ろうとした女性は、「お父さんを返して」と泣き叫んだ。

 高橋シズヱは著書『ここにいること│地下鉄サリン事件の遺族として』(岩波書店、

08 年)の中で、この女性に付き添った様子を詳しく再現している。


〈広瀬健一被告がサリンを散布させた丸ノ内線で父親が亡くなった女性遺族が、検察官から「父を殺した実行犯」が被告人席にいることを教えられ、「死刑にしてください」と答えた後だった。弁護側が、事件直後に彼女が検察官の前で供述した調書に書かれていることを指して、「お父さんを返してほしいとあるが、今も同じ気持ちか」と聞いたとき、彼女は「お父さんを返して。返してくださいようっ」と叫んで証言台に泣き伏した。

 それを見て、私はとっさに「証人に付き添っていいですか」と傍聴席から申し出た。裁判長もそれを認めたので、私は法廷のなかに入り、裁判所の職員といっしょに泣き続ける彼女を支えて、控え室に連れていった。私の娘ほどの年の彼女は、椅子に座ると「高橋さん、言ってやったよう、言ってやったよう」と、子どもみたいになおも泣き続けた。手を握ると、冷たくて、震えているのがわかった。「うん、よかったね。(あの言葉は)天国にいるお父さんに聞こえているよ」と私は答えた。彼女は「聞こえたかな。聞こえてほしい」

と言った〉。

  証言を聞く広瀬の顔はこわばっていた。

 

 その直後の4月、広瀬は精神に変調を来し、出廷できない状態となった。家族や弁護人とも半年ほど接見ができなくなり、審理も一時中断した。それを乗り越えて審理に復帰した。精神状態の悪化は、遺族の証言によって深い絶望感が生じたことが大きかったのではないか。それに加え、心理鑑定のために精神科医と面談した際、「心の深層では教祖を捨て切れていない」との指摘を受け、再び麻原と向き合い、教祖を特別視しようとする気持ちを見つめ直したからかもしれない。


●遺族に書いた手紙の下書き●

 

 広瀬から最初に手紙をもらったのは01 年4月。私が切り花を差し入れたことに対するお礼だった。

〈私も同じ昭和39 年生まれ。証人出廷の時に私を担当した検察官も同じ年代の方が多かったです。教団にいた時は重要な救済活動をしていると愚かにも思っていたのですが、このような立場になって、社会で活躍されている同じ年代の方々を見るとうらやましく感じます〉

 

 最高裁で死刑が確定するまでは、東京拘置所に行った時は必ず切り花を差し入れた。いつも丁寧な礼状が届いた。麻原の一審判決を前にした04 年2月、広瀬に5回にわたって東京新聞に手記を書いてもらった。手記に「アレフ」に残る人たちへのメッセージをこめたいという意図を明かしていた。


〈オウムに関する既刊の解説本では、仏教の専門家が仏典とオウムの教義を比較して、オウムの教義の誤りを論理的に指摘していることが多いです。しかし、信徒は修行経験のない仏教学者は仏典を正しく解釈できないと教えられており、かつ理論より体験によって教義を確信しているので、このアプローチでは信徒に教義の誤りに気付かせるのは難しいのです。

 ですから、私は信徒の体験そのものに疑問を抱かせる方向に導くことを考えています。この方法でも、麻原が教団で指導していた求心力が強い頃は通用しないと思いますが、麻原がいなくなってから久しい今なら通用するかもしれないと淡い期待を抱いています。ただ、信徒が私の書いたものを読むかという大きな問題がありますが。その他、手記を書く上で解決しなければならない問題が山積みですが、何とか完成させたいと思っています〉

 

 麻原の控訴が棄却された後の06 年9月の手紙では、麻原の本質を見抜けなかったことへの後悔の念を記していた。

〈麻原は事件を含めた現実に向き合うと、自分が最終解脱者でないことを認めざるを得なくなるでしょう。すべての状況は麻原が最終解脱者としての力を持たないことを示しているのですから。麻原は自己のプライドを保持するために、すべてを拒否したままこの世から消えていくのかもしれません。このような麻原の本質を見抜けずに指示に従った私の愚かさが悔やまれます〉

 

 麻原ら7人の死刑執行があった18 年7月6日の後、広瀬から7月30 日に面会に来てほしい、と指定する手紙が母親に届いた。今まで具体的な日を指定してきたことなどなく、30

日に行く予定でいたら26 日に刑が執行されたという。麻原ら7人の刑が執行された後、母

親は一度も会えないまま永遠の別れになってしまった。

 遺品の中からは、サリン事件の被害者や遺族に書こうとしていた手紙の下書きが見つかった。「拘置所に行けば今も会えるような気がしている。目の前に遺骨があるのも信じられない」と母親は私に語った。一周忌には納骨をする予定だという。



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